peony2020のブログ

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親の病気【母】

 

私の母はいま73歳。

昨夏、腸閉塞になる。

それがきっかけで悪性リンパ腫が見つかり闘病生活に入る。

 

母がなるまで病名すら知らなかったが悪性リンパ腫は血液のがん。

前々から「私はがんには絶対ならない。」と言っていた母。

根拠はないが自信があっただけに、がんと分かったときは

とてもショックを受けていた。

父に比べ健康な母ががんになったことは

私にとってもショックなことだった。

 

ただ、今まで全く病気をしなかったわけではない。

2015年脳梗塞になっている。

  

私が出産のため里帰りしていたときだった。

ある朝、左腕がおかしい顔も歪んでいる気がする。

と母が訴えてきた。

言われみれば右と左では顔が違うような。

傍から見ると微々たる違和感だったが

父の脳梗塞を一番近くで何度も見ていた母は

自分自身の体調の変化に素早く気が付くことができた。 

病院に向かい、そのまま入院となる。

 

母は私の出産までに退院したいと言っていた。

脳梗塞ではあったが軽症だったので

その言葉通り、出産予定日の1週間前に退院した。

 

私が出産してから4か月後に父がまた脳梗塞になる。

父はしばらく入院していたが、病院はそう長くはいられず

自宅を車いすが入れるようにリフォームして

母が在宅介護することとなった。

それまでの脳梗塞では退院後、普段通りの生活に戻れたが

今回は半身不随、失語症になり要介護4となる。

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それから約3年後。

母が腸閉塞になり入院する。

 

入院中、母は自分のことより父のことばかり心配していた。

母の入院がきっかけで父は介護付き老人ホームに

短期入所することとなった。短期入所期間は最大30日。

それまでに回復すると母自身も私も思っていたし

長期間、父を施設に入れることは考えていなかった。

 

父は自宅を離れることを嫌がったので

私が息子と一緒に実家へ帰ることも考えた。

トイレがとても近くなった父に、そのたび呼ばれる。

それは夜中でもかわらない。睡眠が断続的になる生活を

続けることは幼い息子がいる私にはできない。

いや。わかりやすいできない理由があっただけで

幼い子供がいなかったとしてもできない。

 

母は3年間もそうしていたのだ。

雨の日も晴れの日も。

自分の母親が亡くなったと知った日も。
 

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母の腸閉塞の原因は腸に腫瘍があったことだった。

これを調べたことで悪性リンパ腫がわかり

抗がん剤治療が始まった。

最初は入院して抗がん剤投与、その後は通院での

投与が続く。

薬の副作用は強かったが、それ以上に母は強かった。

何を食べても砂を食べているような味覚障害

毛という毛が全て抜ける、 強いだるさなど

たくさんの副作用があったがそれを乗り越えて

今年の2月には寛解となる。

 

まだ、ふらつきは残っているのが気になるが

昨夏に比べて元気になっている母。

 

「まだ死んでたまるか」

結婚してから父に従えてきた母はそんな風に思って

闘病しているように感じる。

 

 

 

親の病気【父】

 

私の父はいま74歳。

昨夏から介護付き老人ホームにいる。

 

還暦を迎えたその月に脳梗塞になった。

「物の名前が出てこない」

「名前が出てきても違う物の名前を口に出している」

いつもと様子が違う父をみて、近くにいた親戚が

病院に行くことを勧め、そのまま入院。

 

当時の私にとって、親の死は遠いものだった。

ずっと実家暮らしで毎日顔を合わせていたから親はいつもいる。

いつかは死んでしまうだろうけど、それはまだまだ先のこと。

そう思っていた。

 

親の死が急に身近になり、無事に退院するまでの間

毎日泣いていた。

小さい頃に遊んでくれたことを思い出したり

花嫁姿も孫の顔も見せていないことや

今まで育ててくれたことへの感謝を

伝えていなかったことを後悔しながら。

 

父は退院してからしばらくすると

以前とほぼ同じように暮らせるようになったが

「前のように頭が働かない」と時々こぼしていた。

 

病気になる前より、食事と運動に気を付けるようになり

タバコも止めた。

ただ、どこかで薬を飲んでいたから大丈夫という

過信があったのかもしれない。

晩酌は欠かさず、外食好きで甘いもの好きの父に戻った。

 

父が67歳のときに私は結婚した。

それまでの間に、2回脳梗塞を再発していたので

やっと花嫁姿を見せることができると思った。

 

私が結婚した翌年には、腹部に【大動脈瘤】という致死率の

高い病気が見つかるも大事には至らなかった。

何度も大きな病気をしながらも毎回元気になっていたので

病気の知らせを受ける度に、父の死を恐れながらも

また元気になると思っていた。

 

父が69歳のときに、私は息子を出産した。

後で母から聞いた話だが、小学生になったらランドセルを

買ってあげたいが自分たちが買っていいのか

それとも夫の両親に譲った方がいいのか

生まれた日に聞いていたらしい。

息子の顔を見せることができ、私はひとつ使命を果たしたような気がした。

 

息子が生後4か月のとき。

父がまた脳梗塞で入院した。

70歳を迎える1週間前で、誕生日にはお祝いを

しようと計画していたときだった。

 

その脳梗塞で父は右半身不随、失語症になった。

車いすに座り、慣れない左手で介護用お箸を使い、

ひとりでは用を足すことができない。

表情は乏しい。

こちらが話している内容は「今日は雨が降るらしいよ」

とか簡単なことしかわからない。

父から出る言葉は「これな」と「なによ~」だけになった。

 

今までと全く違う父の姿を見るのはとてもつらかった。

優しくて背が高くてカッコいい、車の運転が上手で

面白くない冗談ばかり言うが、たまに面白いときもある。

子供の頃から見ていたそんな父はいなくなってしまったから。

 

息子が歩けるようになる頃には

父も歩けるようになって一緒に散歩している。

息子がおしゃべりをするようになる頃には

父も話せるようになり、ふたりで会話している。

そういう未来を想像していた。

 

ところが、痛いのか、それとも諦めているのか

父はリハビリに対して積極的ではなかった。

父はいまも変わらず右半身はほとんど動かず

言葉を発することができない。

 

 

息子の出産のため里帰りしていたときに

父がふと「あと10年、生きられたらいいかな」と

言っていたことを思い出す。

これから孫が生まれるのになんて老い先短いことを

言うんだろうと悲しくなった。

その場に母はいなかったが、母なら

「ひ孫の顔は見たいね」と言うだろう。

 

今にして思うと、病気を繰り返している69歳と

これから子供を生み育てる35歳とでは

これからの人生への考え方が違って当たり前だ。

 

 

父がどういう気持ちで毎日を過ごしているか。

 

あだ名を付けることが好きな息子は父のことを

「早く歩きたいマン」と呼ぶようになった。

父が歩きたいと思っているかどうかはわからない。

 

 

 

 

一緒に眠る相手

4歳半の息子。

いまだに私の布団で一緒に寝ている。

たまに「パパと一緒に寝てみたら」と

言っていても「ヤダ!!」の一点張り。

 

息子はパパのことを好ましく思っていない時期が長かった。

 

おしゃべりするようになってきた2歳の時

『ママ だいすき、

 じいじ ばあば だいすき、

 しまじろう だいすき』

『パパは?』

『パパ だいすき ない!!』と

言っていたくらい。

 

夫と息子がふたりだけで公園へ行くようになったのも

ここ1年くらいで、それまでは3人で行っていた。

公園くらいふたりで行って私を休ませておくれ・・

と何度思ったことか。

 

パパを毛嫌いしているところもあるが

仲が良いときもあるので、たぶんママっ子すぎるのだ。

 

そんな息子がついに夫の布団で寝た。

私が感染性胃腸炎になってしまったのだ。

 

私は子供の頃からけっこう高熱を出す質で

足腰が急にダルくなってくると

あ、これから高熱が出るな。と分かる。

しかもインフルエンザでないことばかり。

今回もそうで、ダルさから始まり38.9度まで出た。

いつもと違って腹痛と下痢症状もある。

コロナを疑ったが、咳はなく肺の痛みもないので

違う気がする。たぶん食中毒。

でも分らない。

 

その日の夜、あまりにしんどそうな私の姿を見て

息子はしぶしぶながら夫と寝てくれた。

 

翌日、近所の内科に事前に電話して症状を伝えたら

来院してもよい、ということなので診てもらった。

「下痢なのにレントゲンなんて変ですが念のため」

と言われ、レントゲンを撮ったが、影はなく

症状からみて「感染性胃腸炎」の診断だった。

「コロナが騒がれていますが、実は多いんですよ」と先生。

 

厚労省が出しているコロナの相談、受診の目安に

〈新型コロナウィルス感染症以外の病気の方が

 圧倒的に多い状況であり、インフルエンザ等の

 心配があるときには、通常と同様に、かかりつけ医等に

 御相談ください〉とある。

コロナ以外の病気が多い。全くもってその通りな気がする。

 

 

日頃、健康を気にして、あれこれしている私が

こうなってしまったのでそういうことをあまり

気にしない夫には「意味ないじゃん」と

言われても仕方ないのだが

「気を付けてたからすぐ回復したんだと思う」と

一応言ってみた。

 

夫には迷惑をかけてしまったけれど

息子が自分の布団で眠ってくれたことを

とても喜んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビタミンD しいたけ栽培キット

もう少し、しいたけの話をします。

傘がまだ見えていなかったため

本体ブロックに残していたしいたけたち。

大収穫の翌々日に収穫しました。

嬉しいことに、息子もキッチンバサミを

使って収穫に参加してくれました。

とはいえ、使い慣れないキッチンバサミなので

ひとつ収穫し終えたら「もういい」と満足した

顔をしてハサミを私に返してきました。

全部で17個収穫できました。
今回は干してみます。

本体ブロックは2~3週間お休みさせます。

お休みでもブロックの表面が乾かない程度に

水はあげます。

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しいたけは、生でも干したものでも
調理する前に1~2時間くらい天日干しを

することでビタミンDがアップします。

実は先ほど得た知識なので、アヒージョにした

しいたけたちは天日干ししていませんでした。

たくさん食べたからまあいいか。

逆に食べ過ぎを心配した方がいいかも。

 

紫外線を浴びることで人の体でも作ることが

出来るビタミンD

ビタミンDはカルシウムの吸収を促してくれて

骨を丈夫にしてくれたり、免疫機能を調整する

働きもしてくれる。

妊活や妊娠中にも必要な栄養素のひとつ。

 

私は以前、少し体調を崩したことがあり

その経験をきっかけにビタミンDを含め

食べ物をメインとした生活習慣の重要性を

知りました。

 

紫外線に関しては今まで過剰に避けていました。

顔は1年中、3月からは手や首、GWの頃には

日傘か帽子を常備していました。

今は過剰にならず、そこそこにしています。

ただ、シミやしわは増えてほしくないので

紫外線対策をしているときはシミのできにくい

手のひらを太陽に向けています。

寒暖差のある今くらい季節だと気持ちが良いです。

ただ「何やってるの?」と聞かれます。

 

 

 

お題「#おうち時間