peony2020のブログ

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親の病気【父】

 

私の父はいま74歳。

昨夏から介護付き老人ホームにいる。

 

還暦を迎えたその月に脳梗塞になった。

「物の名前が出てこない」

「名前が出てきても違う物の名前を口に出している」

いつもと様子が違う父をみて、近くにいた親戚が

病院に行くことを勧め、そのまま入院。

 

当時の私にとって、親の死は遠いものだった。

ずっと実家暮らしで毎日顔を合わせていたから親はいつもいる。

いつかは死んでしまうだろうけど、それはまだまだ先のこと。

そう思っていた。

 

親の死が急に身近になり、無事に退院するまでの間

毎日泣いていた。

小さい頃に遊んでくれたことを思い出したり

花嫁姿も孫の顔も見せていないことや

今まで育ててくれたことへの感謝を

伝えていなかったことを後悔しながら。

 

父は退院してからしばらくすると

以前とほぼ同じように暮らせるようになったが

「前のように頭が働かない」と時々こぼしていた。

 

病気になる前より、食事と運動に気を付けるようになり

タバコも止めた。

ただ、どこかで薬を飲んでいたから大丈夫という

過信があったのかもしれない。

晩酌は欠かさず、外食好きで甘いもの好きの父に戻った。

 

父が67歳のときに私は結婚した。

それまでの間に、2回脳梗塞を再発していたので

やっと花嫁姿を見せることができると思った。

 

私が結婚した翌年には、腹部に【大動脈瘤】という致死率の

高い病気が見つかるも大事には至らなかった。

何度も大きな病気をしながらも毎回元気になっていたので

病気の知らせを受ける度に、父の死を恐れながらも

また元気になると思っていた。

 

父が69歳のときに、私は息子を出産した。

後で母から聞いた話だが、小学生になったらランドセルを

買ってあげたいが自分たちが買っていいのか

それとも夫の両親に譲った方がいいのか

生まれた日に聞いていたらしい。

息子の顔を見せることができ、私はひとつ使命を果たしたような気がした。

 

息子が生後4か月のとき。

父がまた脳梗塞で入院した。

70歳を迎える1週間前で、誕生日にはお祝いを

しようと計画していたときだった。

 

その脳梗塞で父は右半身不随、失語症になった。

車いすに座り、慣れない左手で介護用お箸を使い、

ひとりでは用を足すことができない。

表情は乏しい。

こちらが話している内容は「今日は雨が降るらしいよ」

とか簡単なことしかわからない。

父から出る言葉は「これな」と「なによ~」だけになった。

 

今までと全く違う父の姿を見るのはとてもつらかった。

優しくて背が高くてカッコいい、車の運転が上手で

面白くない冗談ばかり言うが、たまに面白いときもある。

子供の頃から見ていたそんな父はいなくなってしまったから。

 

息子が歩けるようになる頃には

父も歩けるようになって一緒に散歩している。

息子がおしゃべりをするようになる頃には

父も話せるようになり、ふたりで会話している。

そういう未来を想像していた。

 

ところが、痛いのか、それとも諦めているのか

父はリハビリに対して積極的ではなかった。

父はいまも変わらず右半身はほとんど動かず

言葉を発することができない。

 

 

息子の出産のため里帰りしていたときに

父がふと「あと10年、生きられたらいいかな」と

言っていたことを思い出す。

これから孫が生まれるのになんて老い先短いことを

言うんだろうと悲しくなった。

その場に母はいなかったが、母なら

「ひ孫の顔は見たいね」と言うだろう。

 

今にして思うと、病気を繰り返している69歳と

これから子供を生み育てる35歳とでは

これからの人生への考え方が違って当たり前だ。

 

 

父がどういう気持ちで毎日を過ごしているか。

 

あだ名を付けることが好きな息子は父のことを

「早く歩きたいマン」と呼ぶようになった。

父が歩きたいと思っているかどうかはわからない。